「科学の体制化」論について その1

 最近、地域の読書会に複数参加している。そういう中には労働組合(茨城不安定労働組合)の読書会もある。若い組合員の中にはマルクスへの関心もある。そのうち、一緒に『資本論』読書会などもやってみたいものだが、とりあえず、最近出たばかりのデヴィッド・ハーヴェイ著/森田成也・中村好孝訳『資本論入門』(作品社、2011年)を推薦してみた。しかし、これもいきなりは重いだろうということで、まずは内田義彦『資本論の世界』(岩波新書、1966年)あたりから読むことになると思う。その本を本棚から探しついでに同じ内田義彦の『社会認識の歩み』(岩波新書、1971年)を久方ぶりに手にすることになった。そこで、こちらを先に再読してみた。それらの本の内容について、ここで深入りはしない。ここでそれに言及したのは、本の読み方として、「新鮮に断片を読む」という『社会認識の歩み』での内田の言葉が印象に残ったからである。その内田の言葉の真意は別にして、私もこのブログでは、あらかじめ本の内容や著者の思想の体系的理解にこだわらず、「生存のための科学」を考える上で気になる書物の断片を弄んでみたいと思う。ただ断片を引用するだけで終わることもあるかもしれない。とりあえず引用することでその先に進むかもしれないという賭けである。
 ここで引用するのは、以下の断片である。「断片」というには、著者の「科学の体制化」論を凝縮したかのように見える文章である。
 
「このように科学が国家と産業のそれぞれに包摂され、研究開発において国家と産業が癒着することによって、国家・産業・科学の三位一体ができあがる。科学はこんにちの社会体制をしてまさに体制たらしめる、本質的契機の一つとなったのである。
 こんにちの科学は現存の社会体制のすみずみにまで入り込み、それを維持する不可欠の要素となった。そしてその結果として逆に、科学の全活動はこの体制に全面的に依存し、それから規定されるのである。このような事態をさして、「科学の体制化」と呼ぶことができよう。」

廣重徹『科学の社会史―近代日本の科学体制』(中央公論社、1973年)、13頁。同『科学の社会史(上)戦争と科学』(岩波現代文庫、2002年)、4頁。

とりあえず引用した。ここから始めよう。