<生存のための科学・茨城>とは?

 <生存のための科学・茨城>はできたてほやほやの団体です。団体といってもメンバーは今のところ私一人です。できれば仲間を増やしてゆきたいと思っていますが、そのためにもこの団体が目指すところを明確に示してゆく必要があるかと思います。なにより、「生存のための科学」とはなんなのか? 実は、すでに念入りに練り上げられた概念というわけではありません。例えば、まさに今、福島第一原子力発電所事故は多くの人々の生存を脅かしています。この現実が、この言葉の下にこの団体をつくろうと私が思った直接的動機であることは間違いありません。
 しかし、もともと私の念頭にあったのは、核技術だけではありません。いまだに国内で年間5千人近くが死ぬ自動車事故、また、年間3万人にのぼる国内自殺者の何割かが服用しているであろう向精神薬に疑われる薬害、今やアスベスト石綿)吸引が原因と考えられる中皮腫による死者が国内で年間1000人を超えるという事実、こういったことも、科学・技術の所産が人間の生存を脅かしている現実として私は気になっています。
 しかし、もちろん、論理的に考えても、「生存のための科学」は、生存を脅かす科学・技術のことではありません。「生存のための科学」とは、第一には、人間の生存を脅かす科学・技術を批判し変革する科学のことです。ただし、科学・技術が人間の生存を脅かすとき、それは、多くの場合、極めて不平等で不公平なかたちをとることにも注意が必要だと考えています。人間の生存を脅かす科学・技術の変革が容易でないのは、それが富と権力を持つ者の利害に関わるからです。よって、人間の生存を脅かす科学・技術を批判し変革する科学は、不平等で不公平な社会を批判し、変革し、普遍的な意味で、人間の解放を目指す科学でなければならないと考えます。言いかえるならば、それは、持たざる者の生存と解放のための科学です。
 この「科学」は、狭い専門分野に限定された職業科学者による科学とどのような関係を持つのか?「市民科学」(高木仁三郎)とは違うのか? あるいはひょっとして、「生存学」(立岩真也)と何か関係はあるのか? こういった疑問に、私はあらかじめ明快な答えを用意してはいません。おいおい考えて言葉にできればと思います。当面は、目下の放射能の脅威から身を守り、脱原発運動に棹さす活動を、茨城という地域に根ざして進めてゆければと思っています。

2011年5月9日 藤田康元